寒記亭日記

日々の事を色々

お引っ越し

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HTTPS対応を鑑み、お引っ越しすることにしました。ではでは。

過去の亡霊

朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁
之ヲ古今ニ通󠄁シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕󠄁爾臣民ト俱ニ拳󠄁々服󠄁膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶󠄂幾󠄁フ

 教育ニ関スル勅語 - Wikipedia

 

これ、ざっくり全体を訳すと…

 

私が思うに皇祖皇宗が国を建てたのははるか昔のことであり、徳は深く厚く積んでいる。私の臣民は忠義・孝行を良く守り、一丸となって代々この美徳を為してきたのは我が国体の精華であり教育の根源もここにある。

臣民は父母に孝行せよ、兄弟仲良くせよ、夫婦は互いに睦み、友とはお互いに信じあい、自らは控えめに振る舞い、多くの人に対して博愛の心を持ち、学問を修め、業を習い、それによって智能を啓発し、徳を高め、それにより公益に貢献し世の勤めを果たし、常に国憲を重んじ、国法に従い、何かあれば義勇(正義、勇気)を公のために奉じ、それにより果てること無い天皇の勢威(あるいは皇室の命運)を助けなさい。これは、ただ私一人のための忠良の臣民であればよいということではなく、祖先の威風を褒め称えることにもなる。

これは我が皇祖皇宗が遺した教えであり子々孫々臣民が遵守すべきものである。これを古今通じて誤ることなく、国の内外に対しても背かず、私は臣民とともにこれを忘れず、この徳を皆と一つにしようと思う

 

くらいですかね。この一部分だけを切り出せば「現代でも通じるじゃない」になるとは思います。ただし、重要なのは「その徳目を守ること」がなんのためか、です。

 

一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ

 

他にも文中で繰り返しでてくる「臣民」という呼びかけもそうですが、これが何をもたらしたのか。明治・大正・昭和初期において、この教育勅語が何を生み出したのか。それを知らずに、一部分だけ切り出し読んで「いいことじゃないか!」と、現代の政治家が教育において「教育勅語」を持ち出す意味を否定するのはやめたほうがいいと思いますね…

 

ゴジラの上にたゆたうもの

シン・ゴジラを見て,ゴジラに何を投影するかというのは見た人が自分の内側にあるものを語るに等しい。だから,原発を恐れている人はそこに原発を見るだろうし,有事を意識している人はそこに戦争を見てしまうだろう。

それは優れた表現によって引き出された,見たものの内側である。無意識に引き出された「それ」は誰にも否定することは出来ない。さて,などと語りつつ私がシン・ゴジラを見て何をそこに投影したかといえば,それは地震であり原発であり災害である。

日本の首都圏は常に「いつ目覚めて牙をむくかわからない」巨大地震の巣の上に存在している。一度それが目覚めればとてつもない災害となるだろう。そんな危険なモノ,しかも「いずれ来る」「遠からず来る」と言われているそれを知っているのに,そこに膨大な人間が生活を営んでいる。

映画において「短時間で首都圏から人を逃げさせる」姿が描写されている。仮に,一週間前に「南関東でM7級の直下型地震が起こる」ことが予知できたとして,そこで起こるのは映画で描かれたようなパニックだろう。日本の交通網は優れているが,首都圏の人間を一週間ですべて外にだすほどの余裕はないし,土地もまた同じである。

あるいはそれは,2011年の大地震によって引き起こされた原発への恐怖でもあろう。あの時,もし燃料プールまで暴れていたら。東日本は壊滅的な放射性物質による汚染に晒されたことだろう。

映画の結末において,凍りつきそびえるゴジラを見て,あなたはそこに何を重ねるだろう。それは廃棄方法すら数万年という生物には長すぎる時間を要する放射性廃棄物だろうか,あるいは静かにその時を待つ地震だろうか,あるいは・・・?

境界のないセカイ―あるいは境界のある世界

第三巻が発売され、早速購入し読み終えた。「性別を選んで変えられるセカイ」においける、三つの物語はここに終わり、後に残された私はこの三巻を通じて思ったことを書いていきたいと思う。

当然ながらネタバレしかないので、自らの楽しみとしたい未読の方は気をつけて。

 

既に書いたが、この作品が描く世界は「性別を後から選択できる」技術が確立し、社会に定着している。男女という境界は自らの意思で乗り越えられるようになった、境界のない世界。

しかし、そこには依然として境界が存在している。男性から女性へと体を変えても、元から女性であった人達との間に「境界」が生まれている。それは「性別を変更するのは不自然なことだ」という反発、あるいは「元が男だった女なんて」という嫌悪感、そして「自分は本当に女性なのだろうか」という当人の不安が生み出す境界だ。

あるいはその技術が逆に境界を強くしてしまっている可能性もあるだろう。

この職業には男性、あるいは女性は就くことが出来ない。それは現実にも起こっている障壁だ。では「性別を変える」ことができることでそれは解消されるのだろうか。否、かえって障壁を分厚くしてしまう事にならないだろうか。なぜなら、「それがやりたいなら性別を変えればいい」のだから、元の性のままでそれを為そうとすることはより困難になってしまうのではないだろうか。

そういった疑問を抱えながら、最後の物語が始まる。

もしも、本人の意思と無関係に性別を変えられてしまったならば。そして、もう二度と変える―戻ることができなくなったならば。理想的に思えた世界は裏返ってしまう。性別を自由に選べる世界は、変えることが出来ない人間にとってあまりにも過酷なものになりはしないだろうか。

好きな人が同性であったなら―性別を変えればいいじゃない。

好きな仕事が異性にしかできないものなら―性別を変えればいいじゃない。

その社会は、性別を変えることが出来ることで逆に境界が巨大な壁となって立ち塞がってくる。それに絶望した人を、ではどうやって助けられるだろう。最後に残るのは、やはり人間が自らの裡に作り出した境目を壊すことによって、境界のないセカイを作り上げるしかないのだろう。

 

最後に。三人目の物語を読んだ方に一つ、想像をお願いしたい。自分の意思では性を変えられない、本当は男/女だった人間。もしも、本来の性と違った性にされたのが、生まれる前であったなら・・・?

好きな服を着ることも、好きな人と愛し合うことも、自分の生きたいように生きることが「現在の性別」で禁止されてしまっていたなら・・・?

私はそれを思い、静かにニュースを思い出す。性別を変える技術がまだ存在しないこの現実の社会においても、少しずつではあるが境界のないセカイへと向かっているということを。

 

 

江戸しぐさの終焉

江戸しぐさの「正体」を示した前著から一年半が経過した。この本が嚆矢となり「偽りの伝統」が社会に入り込み、蔓延ろうとしていた状況は徐々に変わりつつある。

江戸しぐさの終焉」では、この江戸しぐさなるものがどのようにして社会に広がっていったのかを追い、またその過程で姿を見せる「現在、日本の教育を蝕んでいるもの」についても言及されている。

思えば教育はこういったトンデモに弱い。水からの伝言ゲーム脳、親学、江戸しぐさといったものはもとより、EMの散布といったニセ科学も入り込んでしまっている。それはどうして起こってしまうのか。そこには何らかの共通項があるのだろう。

私は「感動的ならばいい」「子供・生徒に対して教えたいことに使えれば真偽はどちらでもよい」といった怠慢もその一因ではないかと考える。ことに前者は教育を超えて社会全体に蔓延する病である。感動的なエピソードが実は嘘だった―そんな事例は幾つも思い当たるのではないだろうか。

たとえ江戸しぐさが教育の場から、そして社会から姿を消したとしても、「江戸しぐさ」を蔓延らせてしまったことへの反省がなければ、すぐにでも次の「イツワリ」が現れるだろう。

江戸しぐさの終焉 (星海社新書)

江戸しぐさの終焉 (星海社新書)

 
江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書)
 

 

捏造の科学者 STAP細胞事件

科学における不正行為について、まず私が脳裏に浮かべるのはヘンドリック・シェーンによる高温超伝導研究、世に言うシェーン事件である。

シェーン事件はこれまでよりもずっと高い温度での「高温超伝導」を可能にしたという論文が、すべて虚偽だったというものだ。シェーンの論文を再現しようとしてもできず、多くの科学者は再試に成功しない自分の力量が足りないと考えたという。だが、ある時「彼の論文はおかしい」ことを指摘するものが現れた。グラフがあまりに綺麗すぎる、別の論文で使ったグラフを引き伸ばしたり加工するなどしてまた利用しているのではないか、と。

そしてシェーンの捏造は暴かれた。彼だけが一人で行った実験の装置はとてもではないが彼が主張するような操作はできない。また、彼は「実験で作った成果物」をついに見せることができなかった。

彼は博士号を剥奪され、またベル研究所から懲戒処分を受け科学研究の場から姿を消していった・・・

どうだろうか。STAP細胞事件との類似を思いこさせないだろうか。だが私はSTAP細胞事件とシェーン事件には非常に大きな違いがある、と本書を読み考える。それは、ベル研究所理研の、あまりにも違う「発覚後の対応」だ。

この本では「発表」からの「記者の側からみた」出来事が並んでいる。単に批判したいというのではなく、何が起こったのか、真相は何かを調べようとする姿が浮かぶ。

この事件を追った科学記者の須田氏は理研の対応に疑問を投げかけている。例えば検証委員会の議論の公開について、理研は「一部を削除」するようなことをした。あるいは野依氏の不可解な行動、あるいは外部からの批判に対しての鈍感さ―一つの事件の裏には、膨大な「それが起こってしまった理由」が眠っていることがわかってくる。そして、本書でも触れられているがシェーン事件の「結果」との違いについて思いを巡らせざるを得ない。

この事件の背景を考えるためにも、一読をおすすめしたい。

捏造の科学者 STAP細胞事件

捏造の科学者 STAP細胞事件

 

 

フラジャイル 病理医岸京一郎の所見

 今月からドラマ化作品も始まったマンガを紹介したい。

 

「フラジャイル 病理医岸京一郎の所見」は、これまで様々な取り上げ方をされてきた「医療分野」のマンガである。古くは手塚治虫の「ブラックジャック」があった。天才的外科医だが無免許医ブラックジャックは、その天才的な腕によって多くの患者を救う。

ブラックジャックによろしく」は研修医を主人公として医療界の問題を提起する作品であったと思う。

この二作品に共通するのは、主人公が既存の医療の「外側」にいることだろうか。彼らは主流である医者の外側にいる。しかし、一方で完全な部外者ではない。

 

さて、フラジャイルの主人公は誰だろうか。題名にもなっている岸京一郎をひとまずは主人公としよう。彼は病理医である―病理医が何かは私が説明せずとも検索すればわかるだろう。

彼は患者を持たない。彼が見るのは細胞であり、あるいは数値データである。そんな彼は極めて変人、しかし極めて有能。彼は原理原則を決して諦めない。臨床医、救急救命医、製薬企業、医療システムに対してもその病根を見据えている。

 

さて、この作品を読んでいてふと思い出した事件がある。ソリブジン薬害事件がそれである。もし、その場にこういった「医者」が一人でもいたならば・・・